📅 2025.6.15-6.21週の出来事
旅行の準備に四苦八苦
Obsidianの使い方で悩ましい部分もあるな
同僚とAIの話をするなど。盛り上がった
武術の試験の結果は出たみたいだけど、どうだったんだろ
授業としてのミネルバは今週で終わり。あとは最終課題の提出
🇰🇷:ハングルノート 6月17日
今週も形容詞の復習と、〜して、なになにするの復習でした。
あんまりにも復習が多くて書くことなくなってきたけど、自習できるほど時間もないのが悩ましい!
💎:議論がデザインに引っ張られる
議論がデザインに引っ張られる問題と向き合った話 を見て、とても納得できる部分があるのと、デザインを見せることで起こる現象は、なぜ起きるのか?を自分なりに考えてみました。
satoamiさんがおっしゃるように、一番避けたいのはこれですよね。
デザインに議論が捉われてしまうことによるリスクはいくつかあり、「ディティールに話が逸れることによる時間のロス」もありますが、一番は「ソリューションが固定される、視野が狭くなる」のが怖いなと思っています。
最近、知った言葉がまさにこの状態を表すものだと思います。
集団浅考
議論のテーマや結論に対して、参加者全体がある程度の「納得感」を持ってしまい、それ以上の疑問や反対意見、あるいは多角的な視点からの検討が行われなくなる状態を指します。
デザインを作ることで、抽象的な課題が具体化され、みんなの頭の中にぼんやりと物が作られる。それによる集団浅考が起きるんじゃないかなと。
僕もデザイナーなのでこういう言い方は避けたいですが、なんとなくそれっぽく納得感を伴ってしまうんですよね。なので、議論の視点が細かいビジュアルに行きがちだったりします。ここズレてるとか、この部分あのサービスのようにしてはどうか?みたいな簡単に目のつくところに議題が移りがち。
個人的にはこういうバイアスがあることをみんなが理解する必要があるし、誰か意図的に違う可能性を常に疑う役割をするとかもいいのかもしれないですね。誰のどんな課題、ペインポイントを解決したほうがいいのか?までは、やっぱり作らないほうがいいとは思うんだけど、時間という制約もあると思うので、プロセスに囚われすぎるとそれはそれでうまく行かなくなってしまいそうですけどね。
🇹🇼:7年ぶりの台灣旅行
本当は台灣旅行中に少し書いておこうかなと計画していたんだけど、旅行中にやるのは無理ですな。そんなわけで、急遽7年ぶりに台灣に行ってきました。帰りの飛行機でなんで今回台灣行こうってなったんだっけ?と奥さんと話をしたんだけど、なんでだっけね。なんか急に決まったよね。みたいな感じだったんだけど、世界的にもあれですし、きっと今のうちに行っておこうと思ったんだろうな。
そんな台灣ですが、相変わらずすべてがちょうどいい感じで、ご飯も街も人も素敵でした。
詳細は来週書くと思うので、今回は報告のみで
あとがき
10週間にわたるミネルバ大学も、来週の最終課題の発表で終わりになります。正直、会社でやらされる感じもあったり、なんかこれ受ける受けないが踏み絵みたいにも感じていて、それだけでうんざりだわと受けなかったんですが、結果としては受けてみて自分の知識は考えが少し深くなったよなぁと感じた。 こういうの今後はなんでもAIがそれっぽく答えてくれるだろうから、自分としては投げかける問いの引き出しが増えたよな。という感じがあった。
最終課題の提出まであと少し。がんばれ~